meaning-of-life

人はなぜ生きるのか?私のたどり着いた過程と結論を書いてみる

深夜ラジオ

東京に上京し、風呂なしの4畳半に1人暮らししながら予備校通いしていた19歳。
 
浪人生ということもあり、テレビも買わずにいた私の唯一の楽しみは、予備校から帰ってきてから聴く音楽(尾崎豊中心)と深夜ラジオだった。(ネットもガラケーも無い時代)
 
親元を離れ東京で1人暮らししていると『自分が如何にちっぽけで無力で意味の無い存在か』ということを思い知らされていたが(浪人生特有の思考?)、尾崎豊の曲がそんな私の気持ちを汲み取ってくれている気がし、明日への活力にしていた。
 
 
そして深夜ラジオ。
 
金曜日のオールナイトニッポンが楽しみで、デビューしたばかりの新人のころのナインティナインの収録裏話に魅了され引き込まれていた。
 
もう1つ毎週欠かさず聴いていた深夜ラジオが『ドリアン助川の正義のラジオ』だった。バンドマンのドリアン助川が10代の悩みに答えるという内容の生番組。確か土曜の深夜1時とか2時くらいに生放送していたと思う。
 
深夜の生放送のラジオに電話してくる10代の悩みと言えば『死にたい・・・(いじめ、性的な事で)』だ。
 
私と同世代の深刻な悩みにドリアン助川が全力で答えるという内容に、浪人生の私は固唾を飲んで聴いていたし、『自分はまだ恵まれている方じゃないか。グダグダ悩んでいないで浪人生として受験勉強あるのみ』と、自分の気持ちを奮い立たせていた。
 
そんなある日『かよちゃん』という同世代の女の子から電話がかかってきた。そのかよちゃんの内容は『余命半年の大病を患っている』というものだった。
 
10代の女の子では、到底受けとめきれない身に起こっている出来事だが、かよちゃんは自分の運命を受け入れるとともに大病を克服しようと日々頑張っているという内容で、電話の声もとても明るくハキハキしていたので、ラジオを聴いているこちらの気持ちの方が元気づけられるような女の子だった。
 
かよちゃんは定期的に電話をかけてきていて、いつも元気いっぱいの10代の女の子というハキハキした口調で話しをしていたが、ある日、話すのが辛くなってきたので、話せる時に録音したという肉声をラジオで流して欲しいというものだった。
 
当時、『10代の自殺』ということが社会問題になっていたし、実際ラジオにもそのような悩みが多数寄せられていた。かよちゃんも毎週ラジオを聴いていたそうだが、同年代の悩みを聴きながら私には想像できないような気持ちを抱いていたのだろう。
 
いつも元気なかよちゃんは本音を録音し、『みんな簡単に死にたいとかいうけれど、簡単に自殺するくらいなら、私に命を下さい!』と叫んだ。
 
『わがままを言ってごめんなさい。私にも愚痴を言わせてください・・・。』とも。
 
深夜のラジオから流れてきたかよちゃんのその叫びの肉声は、今も私の脳裏にはっきりと記憶されている。その時のかよちゃんの魂の叫びは一生忘れることはないだろう。
 
その後、かよちゃんのお母様から番組に手紙が届き、かよちゃんが亡くなったことを知る。
 
深夜、19歳の私は布団の中で号泣した。
 

黎明期

『人はなぜ生きるのか?』この壮大にして人生最大の難問について、私の考えの経過と、たどり着いた結論を書いていこうと思う。
 
このことを真剣に考えていたのは20代前半の頃であり、今から20年以上も昔のことなので、私の記憶も曖昧な部分もある。
 
昔のことを思い出しながら事実を書いていこうとは思っているが、多少の誇張や事実相違もあることをご理解いただいた上で読んで頂きたいと思う。
 
その1:黎明期
 
『人はなぜ生きるのか?』この人類の永遠の難問とも言えることを考えだしたのはいつだろうか?昔の記憶を辿っていくと、恐らく18歳(高校3年生)の頃だったと思う。
 
何がきっかけで考えだしたのかは覚えていないが、高校3年生の当時、所属していた野球部では万年補欠であったし、学業も飛び抜けてできた訳でもない、彼女がいたわけでもなく、なんとなく高校生活を送っていたことを記憶している。
 
高校3年生の冬、同級生たちの進路が次々と決まっていく中、自分の進路が決まらず、夜、寝付けない日々が続いていたとき、私は布団の中で尾崎豊を聴いていた。
 
彼の歌詞と歌声は18歳の私の心に刺さるものがあったし、『人はなぜ生きるのか?生きる意味はあるのか?』という問題に真剣に向き合うきっかけになった存在だった。
 
 
私の故郷は長野県松本市。歩いて5分のところに国宝松本城があり、北には『日本の屋根北アルプスを見ることができる環境で18歳まで育ってきた。
 
長野県の自然は雄大であり四季折々の素晴らしさ感じることができるので、一年通して多くの観光客が訪れるが、生まれた時からその環境の中にいた私にとっては、決して『すばらしい』ものではなかった。
(44歳となった今はその素晴らしさがわかる)
 
実家から北の風景を見ても、南を見ても、西を見ても、東を見ても、山に囲まれているその環境は、18歳の自分にとって閉塞感を感じるものでしかなく、ただただ『抜け出したい』という想いだった。
 
とにかく自分の生活環境を変えたい、閉鎖された空間から抜け出したい一心だった私は、高校を卒業した後、東京で予備校通いすることを両親に相談することもなく一方的に決め、高校を卒業後、尾崎豊のCDを抱えながら、18歳の春1人上京した。